明治26年、初台初代田中喜太郎が「つぼ忠」を開業してから約122年に渡り、仏具を中心に木製のものづくりを続けて参りました。
そのこだわりと、仕事に対する誠実さは現五代目、田中正司までしっかりと引き継がれています。
初代 田中喜太郎
二代 田中喜太郎
三代 田中盛一
四代 田中一雄
五代 田中正司
お二人とも(四代目と五代目)木材からひとつの物をつくりあげていくということに仏壇づくりの魅力を感じているようだ。仏壇は消耗品ではなくいつまでも形が残るものだから、その分責任をもって作 っていかなければと意気こんでいる。だからといって「仏壇は拝むものだからこうしなきゃ」と思いながら作ることはあまりない。ただ、時間が経つのも忘れて仕事にのめり込んでいくという。(略)職人は同じ作業の繰り返しだがその中でいいものを作り続けたいと語ってくれた。
「店の名前が世間に出ることはあっても職人の名前は出ない」そんな寂しさも抱え、直接会う事もないお客さんにもっとアピールしたいと考えている。(略)最近では仏壇の展示会を開き、職人が 実演することもあり、表に出る機会もあるようだ。「職人と消費者がふれあうことができて、職人を もっと身近に感じてもらえたら、こんな職人がいることを分かってもらえたらいいな」これが職人さん の思いだ。
田中一雄師はつぼ忠四代目(昭和63年伝統工芸士認定)で16歳の時から彫刻刀を握り、戦中戦後の一時期を除き、宮殿を作り続けてきた。宮殿は繊細な仕事を要求される。無数の細かいます組みを作り、それを丹念に組立て、宮殿へと仕立てていく。当然のことながら以前は仕事の全てを手作業で行っていた。「木をにらんで、まっすぐにすることが大切な仕事でした」と一雄師は語るが、つぼ忠は彦根産地の中でも比較的早く木工機械の導入を進めた。一雄師は「機械に流れ、手の仕事がおろそかになってしまった」とも語るが、時代的には、金仏壇の注文が殺到し始めたころであり、最盛期には職人二人を抱え、朝の七時から夜の九時まで宮殿を作り続けたという。五代目の正司師は昭和37年生まれで高校を卒業後に彦根市内の仏壇店につとめ、木師製作の勉強をして家にもどった。(略)一方、つぼ忠は宮殿師としての自信も見せる。「彦根仏壇に限らず、京型でも名古屋型でも様々な産地の宮殿を作ることができますし、寸法違いの宮殿作りも得意」と語る一雄師と正司師にとって必要なことのひとつは、確実に職人が手薄になりつつある全国の金仏壇産地に自分たちの仕事を知ってもらい、産地を超えた製品の流通を実現させることだろう。また、宮殿師から厨子師という視点の変化によりつぼ忠の仕事の幅は大きくなるはずだ。(以下略)
1990年代には、その功績が認められ、数々の賞を受賞いたしました。
今後も信頼と誠実さを持って仕事に邁進したいと考えております。